子供の頃、寝るのがとても怖かった時期があった。
気が付くと僕は逃げている。自宅のマンション、公園、ゲーセン、友達の家の喫茶店、本屋、見慣れた風景を必死になって何かから逃げている。理由は分からない。分からないけれど、堪らなく怖くて背後を見ることが出来ない。僕の後ろからはタッタッタッタ……と一定のリズムを刻みながら誰かが追いかけてくる。
僕は必死に逃げる、逃げる、逃げる。
でも、思うように手足が動かない。心臓が爆発しそうで息を吸うのが辛い。相手の足音が段々と近づいてくる。僕は泣きそうになりながら町内(って言っても自分の遊ぶ範疇内だけど)を一周し、結局は自宅のマンションの中に戻って来る。
そしてマンションに入った時、ふと思いつく。踊り場の階段の下には清掃用具が入っている小さな納屋みたいな所がある。そこに入ってしまえば絶対に見つからない、と。
そう、絶対に見つからない。
僕は近づいてくる足音を気にしながらも止まっているエレベータの扉を素早く開けて、左上がライターで炙られて焦げている「R」ボタンを押し、音を立てないよう、声が漏れないように細心の注意を払いながら階段の下に潜り込む。
ワックスの隣においてある汚い毛布のような布切れの下に潜り込んで、エレベータが上がっていく音と同時に足音がフロアに入ってくる音を聞いた。間一髪。この状態なら「誰か」は僕がエレベータで上に行ったと思い込む。彼の足音が上に向かったらここから這い出して自宅に逃げ込めばいい。
でも足音は止まったまま。このフロアにいるまま。
段々と不安になってくる。なぜ「誰か」はここに留まっているんだろう。絶対に見つかるはずが無いのに段々と不安になってくる。もしかしたら「誰か」は僕がここにいる事を知ってるんじゃないのか。だとしたらここは危険すぎる。行き止まりでどん詰まりだ。
嗚咽が漏れないように必死に口を塞ぐ。緊張のボルテージが振り切れそうになった時、コツン…と乾いた靴音がフロアに響いた。「誰か」がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。僕の中の希望が絶望に変化し、水に浸したスポンジのように恐怖がじわりじわりと涌いてきた。
どうして「誰か」は僕の考えている事が分かるんだろう。
しかしそんな疑問は杞憂だった事に気がつく。「誰か」は僕の頭上の階段を上りはじめる。なんだ。屋上に向かったエレベータを待つか、階段を上るか悩んでいただけだったんだ。最初はトントントン……と鳴っていた足音は中二階の所から駆け足になり、数秒もすると僕の耳に聞こえるのは遥か上方からの足音だけになった。助かった。
汚い布きれからのそのそと這い出し自分の服を眺めて落ち込む。お母さんになんて言おう。先週買って貰ったばっかりのピカピカのMA1。見る影もなくドロドロに汚れている。慌てて叩いたが汚れは取れず、言い訳が頭の中で次から次へと浮かんでは消えた。「得体のしれない人が追っかけてきて逃げて隠れて服を汚しました」は余りにも嘘臭くて最初に却下されそうだった。
「そうだな」
頭の中に突然声が響く。
びっくりして正面を見るとそこには、
逆さまの「誰か」が階段の上からこちらを覗き込んでいた。
そして僕は目が覚める。「誰か」の顔はしっかりと見ているハズなのに、起きると全然覚えていない。ただ、あの、何ともいえない恐怖はしっかりと頭にこびり付いていて、思い出すと怖くて僕は泣いた。
その時期、最終的に僕は「寝る」と言う選択肢を放棄していた気がする。その頃僕は余りにも幼稚で、余りにも短絡だった。前後の経緯は覚えて居ないが、目を閉じると号泣している母親と足元に転がっている「何か」が在った事を記憶している。
ある程度の妥協と打算、表面上の付き合いが上手くなった頃から、夢はぷっつりと見なくなった。嫌な体験や経験は時間が解決してくれた。友達と遊んでいると忘れられた。それだけが僕の救いにもなっていた。
なのに。
受験を控えた夏、縁日でばったりあった友達と喧嘩(って程でも無いか。口論?いざこざ?まぁそんな感じの)した日の晩から「誰か」は再び僕の前に現れはじめた。喧嘩の原因?思い出せない。多分すごくつまらない事。下らない一言。そんな感じだった気がする。
再会した「誰か」は全く容赦が無かった。あの手この手で連日、僕を恐怖のどん底に叩き込む。起きた時はいつも汗びっしょりで、気分は最悪でイライラして、毎日起こしに来てくれた瑠璃には随分辛くあたった気がする。結果、僕は第一志望の学校には「遅刻」と言う理由で不合格だった。「誰か」は目的を達したらしく、再び闇の中に潜って出てこなくなった。
どうして「誰か」は僕の邪魔をするのだろうか。
そもそも「誰か」は誰なんだ。
学校を卒業してバイトに勤しんでいた自分の中に在った、狂気に対する咎めは、ある朝暫定的に解決した。悪夢から目が覚めた僕の布団の上から「誰か」が僕を覗き込んでいたのだ。直感的にコイツが「誰か」だと言う事が分かった。そして同時に今まで彼の姿が分からなかったのも納得がいく。彼には形が必要無かったのだ。時には電柱だったり、ポットだったり、バイト先の警備員だったりした。
僕の社会生活の否定が始まった。
フラッシュバック、と言う言葉は理解はしていたが、正直体験する気は全く無かった。しかし、実際に幻覚が頻出するようになると仕事どころではない。一体誰がポットに敬語を使って喋る男と仕事できるか。僕は部屋に引き篭もった。瑠璃は毎日僕の様子を見に来てくれた。
そして今日。瑠璃と彼が置き換わった時、とうとう僕は彼(瑠璃?)に暴力を振るってしまった。その時の僕の異常さが瑠璃の心配に拍車をかけたらしく、結局今までの経緯を全て話さなくてはいけなくなってしまった。
話している最中も頻繁にフラッシュバックが起こり、彼と瑠璃がくるくると入れ替わる。恐怖と安心のバランスに必死に耐えながら僕はついに彼に話し掛けてしまったのだ。貴様は一体誰なんだ、と。彼は即答してきた。
「biAs+」
最初は聞き間違いかと思った。しかし綴りまで鮮明にイメージできる。バイアス?
僕は慌てて立ち上がると本棚に挿さっている英和辞典を引く。
bias (n) (縫目/裁ち目の)斜線、 バイアス ;
傾向、性向 ; 先入観、偏見 ; 【無電】バイアス、偏倚(へんい).
思わず苦笑する。「傾向」「性向」「先入観」「偏見」…。そんな彼が僕にしてきた事は「友達との決裂」だったり「受験の失敗」だったり「社会生活を営めなくする事」だったり。頭の後ろで何かがバチバチとはぜる音が聞こえたその時、突然昔の記憶が鮮明に浮かび上がってきた。
号泣している母親。
足元に転がっている「何か」が在った。
何かは黒猫。
奇妙な確信が在った。バイアスはこの僕の黒猫なのだ。
矛盾はしている。矛盾をしているから彼なのだ。
彼が先で僕が黒猫をバイアスとして殺したのか、バイアスが黒猫として存在して僕が殺したのか、その区別は僕には出来ないけれど、母親の大事なものとして存在していた彼は多分黒猫だったはずだ。それともバイアスは二人同時に発生するのだろうか。
「瑠璃、僕を寝かせないでほしい。
寝たら『誰か』の勝ちなんだ。今回は負けられない」
そう言いながら僕は泣いていた。これから起きる事を考えると嫌でも幼少の記憶が甦ってくる。が、あの時の記憶は後半、欠落している。
そして結果、彼は勝った。僕は黒猫を殺した。
「誰か」は僕の考えている事が分かるんだろう。
「誰か」は誰なんだ。
バイアスはあれから一言も発せずに僕を凝視している。
僕もバイアスに一瞥をくれてからその場にうずくまる。
これから彼との長い数日の幕が開ける。
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